脚色・原田さんより (前編)

今回『大友宗麟』の脚色を担当した、シナリオライターの原田佳夏と申します。
東京在住ですが、大分産です。


東京に吹き荒れた木枯らし1号が「『大友宗麟』の脚色担当として、ブログにコメントを頂けませんでしょうか」というメールを連れてまいりました。


おおいた演劇の会のブログを改めて拝見すれば、恐れ多くも、宗麟さま御正室・エザベルさま始め御当主・宗麟さままでが、決意とともに稽古の模様を中継されているご様子です。
そんな中、なんの役もつかぬ(当たり前ですが)一介の物書きに過ぎぬわたくしなどがコメントを寄せてよいか、一くしゃみする間ほど悩みましたが、すぐにお受けすることにいたしました。


あれは、まだ、しとしとと雨の降る6月のことでした。もしかするとざんざかと風雨が暴れていたかもしれません。もしかすると、じっとりと暑かったのか――。ともかくも、なんとも大変な季節の只中に、おおいた演劇の会会長であらせらるる清末典子さんから一通のメールが届きました。
「折り入ってお話があるのですが……」
清末さんの折り入ってのお話の内容がどうであれ、断れる方がこの世にいらっしゃるでしょうか? 断れる方がいらしたら、是非その方の連絡先を教えていただきたい。すぐに連絡を取っていろいろと御相談したい……。



閑話休題


清末さんからの折り入ってのお話は、「中沢とおる先生の追悼公演で『大友宗麟』を上演したい。ついては、2時間半に及ぶ中沢とおる先生の戯曲を1時間45分にして欲しい」というものでした。
「貰える仕事とお菓子とブタは、後先考えず受け取れ」というのが、原田家の家訓でございます(但し、原田佳夏一代のみ適用)。ブログへのコメントをすぐに引き受けたのも一重にこの家訓ゆえ。


しかし……。
受けてから、思いました。
(2時間半に及ぶ中沢とおる先生の戯曲を、1時間45分にするなんて……、そんなこと……、できるのか?)


通常、映画やテレビドラマのシナリオは、平均して原稿用紙1枚分が1分に相当すると考えられます。つまり、45分短縮するということは、原稿用紙にして45枚分、削らなければならないということです。
我が身の余分な脂肪も削ることが叶わない原田に、そんな重責を担うことが出来るでしょうか。


後先考えずとはいえ、一旦受けてしまったお仕事です。ここはやるしかありません。決して、清末さんが怖くてお断りできなかったわけではありません。ここは声を大にして言っておきます。


それから、2ヶ月の間、清末さんに数時間に渡りヒアリングをし、製作の小野さんにお願いして、初演当時の新聞記事やパンフレットを集めてもらいました。手に入る限りの大友宗麟の資料を十数冊読み直しました。中沢とおる先生の戯曲を入力し直しながら、中沢先生の作品のリズムを身体の中に叩き込みました。


今回のお仕事で、私が心掛けたのは、「中沢とおる作品としての『大友宗麟』を損ねないこと」――その一点に尽きました。


実は、私は、中沢先生のご指導を受けたことが一度もありません。
しかしながら、中沢先生の薫陶を受けた清末さんの演出に接することが多く、その世界観の持ち方、芝居に対する真摯な態度、そういったものに、深く感銘を受けていました。


その中沢とおる先生の追悼公演であることの意味。


どこを削り、どこを残すのか。私が進める作業は中沢先生が目指した戯曲の世界観を壊してはいないか。――私の作業は慎重を極めました。


そして、凄まじい暑さの8月、再構成した『大友宗麟』を脱稿しました。


ところでみなさん、「脚色」とは何かご存知でしょうか?
一口に「脚色」と言いますが、今回、私がやったのは、世間一般でいう「脚色」とは異なっていた気がします。


通常「脚色」というのは、「小説や事件などを演劇などの脚本の形に書き改めること」を言うと辞書にはありました。また、事実に色づけして面白くすることを「脚色」という言い方もよくします。これは事実を脚本、つまり虚構の物語・ドラマにすることという意味と、「色」からの連想が合わさったことから始まったようです。


また、語源を手繰れば、本来は中国語だとか。
脚は「根本」の意味で、「色」は表に現れることを言ったそうです。古代中国では、その人物の出処が現れることから、身分証明書や履歴書を意味したといいます。
現在の意味で使われるようになったのは近世以降のことだそうです。


ここまで調べてみて、やはり私は、一般的な意味での「脚色」はほとんどしていないと確信しました。
自分の中では、中沢先生の戯曲を「再構成」させていただいたと思っています。
しかしながら、中国語でいうところの「『根本』が『現れる』」意味での「脚色」であれば、そこに近づこうと頑張った、と、いえるかもしれません。


「脚色」という名の「再構成」を終えてほっとしたはずの私でしたが、ひとつとても困ったことが。
実は、私の中で、中沢先生が描く「宗麟」像が上手く結べずにいたのです。
理解したつもりでしたが、いざ、「宗麟」の魅力を言葉にしようとすると上手くまとまらない。時間をかけて、中沢先生の戯曲を熟読し、分解し、再構成したはずなのに。
そんなもやもやを、私は抱えたまま、解決することが出来ずにいたのでした。


ところが。11月初旬に行われた合宿に参加したとき、それは起こりました。


(後編につづく)