脚色・原田さんより (後編)

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東京から大分に戻っていた私は、合宿の2日目の荒立ち稽古から参加させていただきました。
役者さんたちは1日目の懇親会の余韻に浸る間もなく(伝聞)、私は湯布院の観光も、景色も楽しむ暇もなく、底冷えのする会議室で、荒立ち稽古が始まりました。
荒立ち稽古と呼ばれるそれは、台本を手にしたまま、舞台装置の模型を見ながら、演出家の意図を確認しながら、行われます。
役者さんは、本読みと呼ばれる、座って台本を読みながらの稽古から、初めて立って芝居をするのです。目の前で繰り広げられた芝居自体は、思い切り不完全というか、手探りの状態です。
供侍や侍従たちは右往左往し、宗麟もエザベルも家老たちも、長台詞に苦戦しています。
演劇の現場を知らない方がこの荒立ち稽古をご覧になったら、心の中で思わず(本番、大丈夫?)と呟きたくなるシロモノなのです。


しかし、ご心配なく。この状態から、お金を頂いてお客様に感動をお届けする舞台に、見事に変って行くのです。


例えるならば。
仕上げていく過程は、まるで何もない・何も産まないと思われた荒涼とした土地の変化を見ているようです。
石や木の根っこが掘り出され、堅くなった土に鍬が入れられ、柔らかい土に生まれ変ったところに種が蒔かれ、時に台風や強い日照りに弱りながらも最後には立派な実りをつけていく様は、深い感動と感慨を見守るものに与えます。
そのことを知っているから、演出家は「本番で本物になれる」役者を信じて演出をし、その演出家を信じた役者は「本番で本物になれる」自分に成長していくことが出来るのです。


話を合宿2日目、荒立ち稽古のシーンに戻します。そんな手探りの状態の芝居を、私はみていました。
そして、役者の身体から出てくる台詞と、役者が立つ位置を知ったとき、中沢『宗麟』の凄さが一気に押し寄せてきました。
中沢先生が描きたかった世界の萌芽が、そこには確実にありました。


宗麟の凄さと愚かさが、息子や女たち、修道士、家臣との関係の中で、鮮やかに浮かび上がります。
宗麟が、正室であるエザベルを捨てることにあれほどまでに時間がかかり、決めたとなると、ことさら徹底的にエザベルを捨てようとしたのか、エザベルが何故あそこまで宗麟に執着したのか――散らばっていたジグゾーパズルのピースがぴったりと嵌った気がしました。


芝居は、演技の巧拙だけでその価値は決まりません。
もちろん上手い演技にこしたことはありませんが、その芝居にどれだけの「思い」があって、その「思い」がどれだけ形になるか――それに尽きる気がしています。
そしてその「思い」が溢れているのが、今回のこの『大友宗麟』の舞台だと感じました。


合宿の荒立ち稽古を見たときから、私はこの舞台を、絶対に観たいと思いました。
それは私が「脚色」を担当したからではありません。
一観客として、この役者さんたちが仕上げる『大友宗麟』を観てみたい! その一心からです。
来年3月、見事な豊穣の舞台を拝見できることを、心から楽しみにしています。


本当は、脚色の苦労話と合宿のレポートを面白おかしくするつもりでしたが、根が真面目なせいか、ヒジョーに真面目なお話になってしまいました。どうかお許しください。





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原田 佳夏(はらだ よしか)


脚本家。大分市出身。劇団ホットロード座付き作家。
朝日カルチャーセンター「脚本を書こう!」講座講師。 文化学院特別講座講師。 著作として『脚本を書こう!』青弓社
主な映像作品として、『老親―ろうしん―』(主演:小林桂樹萬田久子、2000年)他。
大分での教育現場での演劇指導、九重町民劇場へ『―菅原道真公異聞―飛梅の寄り道』などを提供。
2006年大分市南蛮文化祭、市民参加ステージ『拝啓 ザビエル様』企画・作・実行委員長。